2017.11.26
「心の割礼」
申命記  30章1〜11節
小 菅  剛  牧師
  6節をお読みください。心の割礼は、神を愛する心に帰られるとあります。これは肉の割礼に比較して語られました。肉の割礼は、男子は生まれて8日目に行うように神はアブラハムに命じられ(17:10〜14)、モーセの律法によって命じられました(レビ12:3)。これは、外的な形式的なもので、この割礼は申命記に繰り返された「律法を忠実に守りなさい」を行わせることができません。
 神は、心の割礼を施すことを約束されました。パウロは、心の割礼を「外見上の割礼が割礼ではなく、“霊”によって心に施される割礼こそ割礼なのです。その誉は人からではなく、神から来るのです」(ローマ2:28〜29)と言いました。また、私たちは手によらない割礼、キリストの割礼を受け、キリストと共に葬られ、キリストと共に復活させられたと言いました(コロサイ2:11〜15)。
 ウエスレーは、心の割礼を「キリストの真の真奉者、神によって受け入れられている状態にある者の特色あるしるしは、外的な割礼でもバプテスマでもどんな他の外的形式でもなく、創造者である神のかたちにかたどって更生された魂と心と霊の正しい状態なのです」とまとめています。ウエスレーは、心の割礼について1733年1月1日説教していますが、それから5年後の1738年5月24日にこの恵みを体験しています。
 神が私たちの心に割礼を施してくださるときに、神のほか何物をも愛さない心の性質が与えられます。神を力の限り愛することは律法の要約であり、完成です。ですから、ウエスレーは心の割礼を「キリスト者の完全」と言いました。十戒も神のすべての律法も神を愛することから出てきます。「常時喜悦、不断祈祷、万事感謝」は心に割礼の実です。心の割礼は、謙遜と愛です。キリストに合一、内住されることによって得られる恵みです。