礼 拝 説 教 要 旨 2007.11.11
「罪の赦しはエルサレムから」
ルカ福音書 24章36〜53節
小 菅 剛 牧師
福音書の終わりはそれぞれ異なる。マタイは世界宣教に伴う臨在、マルコは宣教に伴うイエスの力、
ヨハネはイエスを信じた人は永遠の命を得る。ルカはイエスの昇天と地上の弟子たちの喜びで
終わっている(52,53節)。
弟子たちは、第一に悲しみの時である。イエスは天に挙げられた。大切な人が天国に行ったとしても
地上では悲しい。第二は、不確かな時である。これからの弟子たちの将来、イエスの証人となると
言っても確かなことは分からない。どのようにして、誰が、どこへ、など不明な点が多かった。
第三は危険な時であった。エルサレムはイエスを十字架につけた場所である。
弟子たちに何が起きても不思議でない状況であった。
まだ聖霊は下っていない期間であるのに、彼らは喜び、感謝し、神をほめたたえた。
弟子たちは復活のイエスに出会っただけでなく、み言葉に目が開かれた時、み言葉による喜びと感謝を持った。
そのようなみ言葉経験は、悲しみ、不確かさ、危険の中にも喜ぶのである。
聖霊は下らなかったが、彼らは罪の赦しを経験した。イエスを捨てて、見殺しにした弟子たちに
喜んで復活のイエスは現れて下さった。メシアの苦難と栄光は罪の赦しのためであったことがわかった。
これは大きい。小坂忠さんは、救いの喜びは電信柱に花咲き、焼いた魚が踊り出すようだと表現した。
罪に苦しんだ人ほど神の赦しの恵みは大きい。
イエスは、「罪の赦しを得させる悔い改めが・・・・エルサレムから始まって」と言われた。
イエスを十字架につけよと叫んだエルサレム住民。神はそのエルサレムの罪人を愛された。
神はどんな罪も赦される。罪深い所に悔い改めの赦しの福音は必要である。
罪人のかしらは、福音が必要である。
最後に弟子たちは証人となるための上からの力が約束された。
敵に戦い、自分にはノー、神にはイエスと言う力が。
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