礼 拝 説 教 要 旨 2007.2.11
「まとこの王に忠誠を」
ルカ福音書 19章11〜27節
小 菅 剛 牧師
人々はイエスがエルサレムに入られ、王国(神の国)を宣言されると思った。そこでイエスは神の国はすぐに来ない事とその時までの弟子の生き方を教えられた。
このたとえは、ある立派な家柄の人はイエス、僕はキリスト者、国民はユダヤ人を指す。ユダヤの大王ヘロデの息子アケラオは遠くローマに行き、王として即位をアウグストスに願った。ところが、これを阻止しようとユダヤ人の代表50人が先にローマに行き皇帝に訴えたが失敗した。アケラオは王となり訴えた50人を殺した誰もが知る事件をもとにこの話をされた。
1ムナは100デナリオン(給料の100日分)に相当するが、これはキリスト者に与えられた神の賜物である。「しかし、わたしたち一人一人に、キリストの賜物のはかりに従って、恵みが与えられています」(エフェソ4:7)。賜物の種類と量は違いはある。ただキリスト者には神の賜物がすべての人に与えられていると告げる。
私たちはここで、ただ忠実に、勤勉に働くことを教えられていない。これは真の王のためには働くことを指している。主人は僕に商売をせよと命じた。それは「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』」(マタイ22:37〜39)であり、羊ヶ丘教会5原則の第一と第二である。忠実な僕と悪い僕は羊と山羊(マタイ25:31〜46)のたとえで見る愛の業である。決してこの世の仕事に単に忠実であれと言われたのではない。
悪い僕とは、第一に彼は主人を認め、お金を着服していないが「商売をせよ」の主人の言葉に従わなかった。砂の上に家を建てた人である(マタイ7:26)。第二は、彼は主人の愛や恵みを理解せず、主人を誤解した。試練にあったヨブも神を過酷な厳しい方だと感じた(ヨブ10:13〜)。そうではない。悪い僕は自分の生き方に忠実であったかも知れないが・・・・。
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