礼 拝 説 教 要 旨 2006.11.12
「子供たちと神の国」
ルカ福音書 18章9〜17節
小 菅 剛 牧師
今日は幼児祝福礼拝です。イエスを煩わせまいと善意から弟子たちが子供を連れてきた人々を叱ったが、この教会にはそのような弟子はいないと思う。この記事を読んでいるからである。子供を祝福されるイエスの美しい物語は絵の題材にされ、共観福音書に載っている。「神の国は子供たちのようなものである」と言われた。ここで子供のよき特質を二つあげよう。
1. 謙遜である
18章1〜8節で祈りの力と必要について不正の裁判官のたとえで話された。ここでは祈りのふさわしい態度について教えられた。しつこい祈りだけでは不十分であると。うぬぼれて人を見下げるファリサイ人の祈りは、
(1)神をちらっと見て、自分をじっと見つめている。人と比較し自慢しているのは最も不愉快な高慢である。見下げるとは強い言葉で、軽蔑する、侮る、という言葉である。
(2)心の中で言った。祈りの姿勢は手を広げ、天から賜物を受けるように腕を曲げて祈った。心の中と行為は違う。
(3)神の恵みに感謝しない。自分の働きの正しさを述べた。一方徴税人は、対照的である。遠くで(恐らく異邦人の庭であろう)自分の罪に悲しみ、「憐れんでください」と祈る。彼は謙遜の仮面をかぶっていない。神はこの徴税人を義とされた。義と認められるとは、ロマ書に15回出てくる救いと同じ言葉である。イエスの購いによって義と認められるのが福音である。心から謙った徴税人の姿は子供の性質そのものである。
2. 受け入れる柔らかい心である
謙遜と素直、高慢と軽蔑はそれぞれ双子である。呼ばれれば子供はイエスのもとに行き、よろこんで神の国を受け入れる。子供のように神の国を受け入れるものが神の国に入れるのである。パウロは神に代わって願う。神との和解を受けなさいと。今や恵みの時、今こそ救いの日。(1コリント5:20〜6:2)
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