礼 拝 説 教 要 旨          2006.11.5
「気を落とさず絶えず祈りなさい」
ルカ福音書  18章1〜8節
小 菅  剛 牧師


 気を落とし、失望するとは期待通りにならないからである。何に期待し、その期待がはずれて失望するのか。
 (1)自分自身に失望する場合がある。クリスチャンも自分に失望する。罪に苦しむもの、なきに等しいものを神が選んでくださったと感謝していたのに、気がついたら自分が何かできると思ってしまう。「わたしはなんと惨めな人間か」で始めたのに。
 (2)人に失望する。人を疑うことと、草のような人間に必要以上に期待をしないことは区別しよう。「人間に頼るのはやめよ」(イザヤ2:22、エレミヤ17:5)とある。勝手に相手に、クリスチャンに期待して、期待はずれで失望するのは自分勝手である。それを逆に相手が自分に期待してきたらどうかと考えよう。
 (3)神に失望する場合がある。信仰者モーセもダビデもエリヤもヨブも落胆した。祈ったように事が運ばない、神に従っているのに苦難が続き、繁栄もしない。神は祈っても答えてくださらない。神への失望は罪と言えないが、罪に陥る入口である。
  ここでイエスは気を落とさず絶えず祈れと言って、一つのたとえを話された。
  (1)神の憐れみは、不正の裁判官とは異なる。やもめの訴えに裁判官は行動を起こしたが、彼は隣人を愛し、神を畏れて裁判をしたのではない。ただ、自分のために親切をしただけだ。神は不正の裁判官ではなく、民を憐れみ、祈りを聞かれる方である。神の性質をしっかり握ろう。
  (2)神にはご計画がある。不正の裁判官はやもめが本当に裁判を求めたのかを試みたのでもなく、時を伺ったのでもない。ただ自己愛からである。神は速やかに裁いてくださるが、ただ神の時がある。愛の神は最善をなさる。
  (3)忍耐力は祈りによって手にできる。気の長い短いという性格の問題ではない。人の子が来て救いを完成してくださるまで忍耐が必要。聖霊は祈りを通して受ける。


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