礼 拝 説 教 要 旨          2006.7.16
「だれが救われるのか」
ルカ福音書  13章22〜30節
小 菅  剛 牧師


 神の国が拡張することを「からし種」と「パン種」で語られた。ならば人は次々と救われるだろう。イエスが村々を巡って宣教されたが結果はよくなかった。それで「救われる者は少ないのでしょうか」とイエスに質問した。質問者は、救われる数と共にイエスによれなければ救われないのかと。では、誰が戸を閉められるときに閉め出されるのであろうか。
 第一は血筋で満足しているユダヤ人である。彼らは、自分たちはアブラハムの子孫であることを特権と思い、それが神の国のパスポートだと思っていた。しかし、それでは閉め出される。「しかし、言(イエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた。この人々は、血によってではなく、肉の欲によってではなく、人の欲によってでもなく・・・」(ヨハネ1:12,13)。先に福音を聞きながら血筋のあぐらをかいたユダヤ人が後になり、異邦人である私たちが先になるのである。
 第二は、救いの自己満足である。彼らはイエスと一緒に食事をし、教えを受けらから神の国に入れると思っていた。「よく二つのあやまちがなされる。一つは、内に新創造のみわざが完成していないのに、それが成ったときのような歩みをしようと努力することである。その結果は失望かあきらめか。もう一つのあやまちとは、反対に内に完全なみわざが成され、驚くほどにすべてが新しくなったことに感謝し、安息するまでは良いが、そこに安んじ、腰をおろしてしまうのである。すなわち、その内なる法則を生かしてそれに順応する生活への努力がたりないのである」(小島伊助)。パウロも「わたしは、既にそれを得たというわけではなく、既に完全な者となっているわけでもありません。何とかして捕らえようと努めているのです。」(フィリピ3:12,13)と勧めている。
 救われる人の数ではなく、あなたは狭い門から入りなさい。恵みによって信仰によって救われると共に自己満足に陥らず「狭い戸口から入るように努め」ましょう。


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