礼 拝 説 教 要 旨          2005.3.20
「曲解を正すイエス」
ルカ福音書 6章1〜11節
小 菅  剛 牧師


1. 時代の経過の中で
釈迦は仏像を拝むことを、悟りの便法(手段)として許した。しかし、時代の経過の中で仏像そのものを礼拝するように変わってしまった。律法は「神の思い、よりよい人間関係、正義の基準、人が人らしく生きる指針」として与えられた。信仰者がこれを正しく用いることによって豊かな祝福を得た。ところが時代の経過の中で、律法の精神(こころ)が失われ、人がよりよく生きる手段であるはずの律法を、律法の文字を守るという目的に変えてしまった。イエスは、これを非難し、正されたが、人々はこのイエスに激しい怒りと憎しみを持った。
2. 人の子(イエス)は安息日の主である
論語読みの論語知らず、律法学者の律法知らず。安息日を人のために制定されたのは安息日の主イエスである。だからイエスこそ安息日の内容を理解し、教えることができる。また、安息日の主とは、安息日に主(ヤーベ)を礼拝した。イエスは主(ヤーベ)であるから、安息日にイエスは主であると告白し、礼拝をささげることが安息である。イエスの復活により日曜日が安息日となった。
3. 憐れみの心
右手が萎えていた人がいた。信仰熱心なファリサイ派の人々は、右手の萎えた人への同情や憐れみの心を持たず、イエスを訴える口実を神を礼拝する会堂で探した。律法主義者は、律法を守っている事を誇り、人を裁き、批判する。「すばらしい道徳律を持つ人は、それを自分に当てはめて謙ることよりも、その規準に達していない人を裁く」と言われる。イエスは、律法とは神を愛し、人を愛することであり、神は生け贄よりも憐れみの心を求めておられることを知っておられた。会堂の真ん中で、敵にあえて訴える口実を与えるような形で病人を癒された。律法を曲解してあぐらを組む人への憤りであろう。


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