礼 拝 説 教 要 旨 2004.11.14
「主から受けた晩餐」
コリントの信徒への手紙一 11章23〜26節
小 菅 香世子 師
今日の聖書の箇所は、聖餐式の時に聞く御言葉であります。当時は夕礼拝の時に食事を持ち寄って、交わりを持ち神の愛の内に愛餐の時を持ちました。それが時が経つにつれて「17〜22節」に書いているように、仲間割れしたり、仲間争いしたり、貧しい人々に恥をかかせたり、そうした間違った状況を見てパウロはコリントの教会に、主の晩餐を食べる(礼拝)というのはそうではないと教えているのです。パウロは23節に「わたし自身、主から受けたものです。」と身近に感じるくらい「パンを裂き頂く」「ブドウ酒を頂く」ということがどれ程すばらしいことであるか心に感じて、あたかもパウロもその場にいたかのように表現したのです。ヨハネ福音書6章に「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。」又イエス様は、「人はパンだけで生きるものではない」とも云われているとおり、霊的な意味において、わたしたちの魂の部分はイエス様が下さる肉と血というものを頂いていかなければ永遠の命を得ていくことが出来ないのです。
イエス様の持っていらっしゃるところの愛・謙遜・忍耐・柔和・平和・自制を少しづつ、少しづつ、頂いていくことによって身に付けていくのです。イエス様を信じて180度の方向転換、神に対しては、背中を向けていた生き方が、神様の方を向いたと云う点においては180度方向転換であります。しかし、性格や性質の部分においては、イエス様を魂に頂いて少しづつ変えられていくのです。「33節」からパウロは非常に具体的に、こうあるべきですよと書いています。この21世紀のわたしたちの教会においてもこのようにありたいものです。聖書を神の言と信じている人は皆この聖餐を行なってきました。わたしたちは、毎日の食卓にイエス様をお迎えして家族で、御夫婦でその様な時を持って、1年・2年と続けていって下さい。魂にとって力となっていきます。
(文責・S兄)
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