礼 拝 説 教 要 旨    2004.10.3
試練に出会う時
ヤコブの手紙1章1〜18節
小 菅  剛 牧師
 
 「神と主イエス・キリストの僕」(1:1)と自己紹介している、主の兄弟でありエルサレム教会の指導者だったヤコブが「離散している十二部族の人たち」(1:1)即ち迫害のために散らされた神の民にメッセージを書き送っています。
 まずヤコブは「わたしの兄弟たち、いろいろな試練に出会うときは、この上ない喜びと思いなさい。」(1:2)と言っております。通常、試練は喜ばしいものではありません。試練の性質・目的を知っていないと喜ぶことなど無理なことです。
試練は単なる困難ではありません。それを通してもたらされる結果や目的があります。「信仰が試されることで忍耐が生じる」(1:3)のです。「あくまでも忍耐しなさい。」(1:4)「忍耐」であって「我慢」ではありません。「そうすれば、完全で申し分なく、何一つ欠けたところのない人」(1:4)になるのです。
 単に知識として試練を知っていれば、忍耐し喜ぶことができるわけではありません。神が与えて下さる知恵を通して知る必要があります。そのような観点から「あなたがたの中で知恵の欠けている人がいれば」「だれにでも惜しみなくとがめだてしないでお与えになる神に願いなさい。」(1:5)とヤコブは勧めております。「そうすれば、与えられ」(1:5)るのです。ただし「いささかも疑わず、信仰をもって願いなさい。」(1:6)と補足しております。
 又、試練と紛らわしいものに誘惑があります。試練は神から来る時もあります。しかし、「神は…人を誘惑したりなさらない」(1:13)のです。「むしろ、人はそれぞれ、自分自身の欲望に引かれ、唆されて、誘惑に陥るのです。」(1:14)「そして、欲望ははらんで罪を生み、罪が熟して死を生みます。」(1:15)と罪の連鎖反応が記されております。
 「試練を耐え忍ぶ人は幸いです。」「その人は適格者と認められ」神から適性検査の結果、神の国に属する者として適格と認めていただくのです。「神を愛する人々に約束された命の冠をいただく」(1:12)のです。


                      (文責・S兄)

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