先週礼拝説教要旨 2002.6.16
「神に立ち帰りなさい」
使徒言行録3章11〜26節
小菅 剛 牧師
人々は人を見るが神を見ない。神を認めたくない理由の第一は、人々の偏見である。先祖に申し訳ないとか、たたりがありはしないかと怖れる。しかし、キリストの愛の道、真理の道を感謝しながら生きることに何の問題があろうか。死んだ霊はそのことを知っている。第二は神のところへ行くと自分が分かるからである。聖書は心の鏡であり、聖書を読めば自分が分かり、私達の悪しき様が明らかになる。自分はなんと無知であるかを思い知らされる。神は光、闇を照らし、暗きところがない。自分の姿が明らかにされることに、罪をもつ私達は心重く、避けたい思いになるからである。
人間は自分の罪が分からない。ビリーグラハムは人間の恐るべき七つの罪…高慢、怒り、妬み、不品行、暴食、怠り、そして、強い欲心…を言った。神は地を支配し正しく管理することを人間にゆだねられたのに、人間の欲がこれらの罪を生み、それを阻んでしまった。神はその罪を裁かれる。ペテロはここで「その僕イエスに栄光を与えよ」と言いました。太陽の光がプリズムで七色に分かれるように、神は霊であり、清く正しく偏見のないお方である。公平で正しい裁きを行われる。このような神の性質を一つにまとめると"栄光"という言葉で表される。神はその"栄光"をイエス様にお与えになった。イエス様には神の徳と知恵とが形をもって宿っている、神の栄光を身に着けているお方である。
ところが、私達はそのイエス様を引き渡し、神を否定してしまった。神が私たちを愛し、イエスキリストをこの世に送ってくださったのに、それを拒んでしまった。このような罪をもつ私たちは"神のもとに立ち帰りなさい"と言われても帰る方法が分からない。こんな私はどうすれば良いのだろうかと悩む。しかし、神のもとに帰るにはありのままで神の前に出さえすれば良い。あなたの前に罪を犯しましたと、あるがまま神のもとに立ち帰るだけで良い。神が預言者たちを通して語られたように、イエスキリストが私たちの罪のために苦しみを受け、身代わりとなって十字架にかけられ、よみがえられたことを幼子のようになって信じることである。そうすれば神は聖霊をもって私たちに清い心を与えてくださる。(文責・T兄)
TOP