先週礼拝説教要旨  2002.6.9
「ナザレ人イエスの名」
使徒言行録3章1〜10節
小菅 剛 牧師
 
 牧師は、神は生きておられ、神を信頼する者は失望に終わることはないことを伝えるために立てられている者である。しかし、牧師も信仰を自分の心の中や教会の中に小さく閉じこめて神様を小さくしていないか、と反省するときがある。ここでは、足の不自由な男が歩き出したことで"人々は大いに驚いた"とある。このことを聖書の中の物語として、比喩的にまた霊的に自分の中で小さく解釈してしまうことはないか。しかし、このことは実際に起こった事実である。また、このようなことは現在でも私たちの目の前で実際に起こっている。
神様を私という心の中に閉じこめないで欲しい。イエス様は、私たちが日頃仕事でやりとりをしているその場に、台所で家計簿をにらんでいるそのときに働いていてくださることを、私たちはどれだけ実感しているでしょうか。そこにイエス様がおられるという実体験を経験して欲しい。私たちが生きて、考え、手足を動かしているその中にイエス様は働いてくださる。イエス様は観念の世界とか、心の世界とか、私たちの頭の中で考えるような小さな世界にしまっておかれるような方ではない。私たちの世界を越えたもっと大いなる方である。"主よあなたがご存知です"と自分を明け渡すときに本当に来てくださるのである。
この聖書の箇所は福音のすばらしい絵である。ペテロとヨハネは足の不自由な男に「私たちを見なさい」と言えたように、ペテロやヨハネには金や銀はないけれどもあげるものがあった。本当にこの男が幸せになるものをあげることができた。私たちも人を幸せにすることができるものをもっているという実感があるでしょうか。
 私たちは"ごめんなさい"や"ありがとう"という言葉を簡単に言えない不自由さをもっている。それは神から離れた人間の罪からくるが、イエスキリストはそのような私たちを造り変えるために来てくださった。誰でもイエスキリストにあって新しく生まれ変わることができる。信仰は周りの人を変えるのではなく、自分を変えることである
 "私にあるものをあげよう。ナザレ人イエスの名によって立って歩きなさい。"ナザレ人イエスの名というのは、イエスキリストの力であり、権威である。それは私たちが与えられもっているものである。人々はこのイエスを必要としている。(文責・T兄)            

 

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