礼 拝 説 教 要 旨         2002.1.27
「こんな生き方をしたい」
マタイ25章14〜30節
小 菅  剛 牧師
 
 マタイ25章には、3つの天国のたとえがある。10人のおとめは信仰、タラントンのたとえは奉仕、羊とやぎは愛の生活を表す。ここに貫かれているのは、人の子がくるということである。ここに教会の希望がある。
 主人が旅に出るとき、僕に財産を預けた。主人とは神様のことであり、僕とは教会・私たちを指す。財産、神の無尽蔵の富は、私たちの主イエス様の十字架の救いである。その宝を、神様は親切と寛容をもって私たちに与えたのである。与えられた財産には違いがあった。それぞれにふさわしいだけ、与えられている。そして、与えられた分だけの働きが要求されるのである。
 忠実なよい僕はどのような人であろうか。第一に、主人の寛大さに感じる心をもっている。受ける資格がないのに、一方的に愛と寛容をもって預けて下さった、もったいない、という思いをもっている。信仰生活は、受ける資格がない私たちに神が一方的に十字架の救いを下さった、もったいない、という感恩の生涯につきる。第二に早速、すぐに出ていった、ということである。私たちもすぐに出ていって福音をのべ伝えたい。第三に、かなりの日、辛抱強く待っていることができた。第四に成功している。第五に喜びがあった。喜んで主人に報告ができた人である。主イエス様の再臨を、喜びをもって迎えられる人である。第六に報いがあった。忠実なよい僕だと、賞賛されている。どのように生きたか問われているのである。神の前に忠実に生きたことが賞賛されている。神とともに喜ぶ恵みがある。少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。これが神の国の法則であるとともに、この世の法則ではないだろうか。
 悪い僕は、タラントンを預けられたということに感じていない。神の国を受け継ぐという感動をもっていない。福音のために労苦を惜しみ、言い訳までしている。その結果、神との断絶が待っている。与えられたものを用いないのは、罪である。 やがて主がおいでになるとき、賞賛の言葉をいただける者となりたい。(文責・I兄)     

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