礼 拝 説 教 要 旨 2001.5.13
「幼子に」
マタイ11章25〜30節
小 菅 剛 牧師
今日のテキストから3つのことを学びたい。
(1)イエス様の喜び。25節の「ほめたたえます」とは、「一つになる」という言葉が使われている。イエス様の喜びは、父なる神様と一つの思いになっているということであった。私たちも、父なる神様の御心と一つとなっている、ということを喜びとしたい。父なる神様の思いとは、「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」ということである。「私は知っている」という者には、この奥義は示されない。「幼子のような者」、言葉が十分でない者、何も知らないという謙遜な思いを持つ者に、示されるのである。
(2)イエス様の招き。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と招いておられる。賢い者たち=律法学者たちは、人々に律法を与えた。律法をまともに読み、守ろうとすれば疲れる。それほど微に入り細にわたり定められている。その上に細則を与えて、人々に指一本貸そうとしなかったのが、律法学者たちであった。律法により、人々は罪を知り、罪の自覚という良心の痛みを与えられた。その罪の痛み、良心の呵責に人々は疲れていた。また現代は人間関係に疲れている。イエス様を見上げ、イエス様のもとに行く者は、休みが与えられる。イエス様が十字架につき、その流された血潮によって、罪が赦され、平安が与えられるのである。
(3)イエス様の契約。旧約時代、律法が契約であった。新約の時代には、新しい契約が与えられた。「わたしのを負い、わたしに学びなさい」とイエス様は言われる。イエス様が私たちに負わせてくださる軛は軽く、魂を満足さる。イエス様が半分それを担って下さるからである。
イエス様は、互いに愛し合いなさい、とだけ言われた。これが新しい戒めである。わたしの軛は軽く、わたしの荷は軽い。(文責・I兄)
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