礼 拝 説 教 要 旨         2000.6.18
「神に立ち帰るように」
使徒行伝14章1〜18節
小 菅  剛 牧師
 
 キリスト者は弱さの中に過ごす者ではない。大胆に福音を語り、迫害の中にも勇気を持って歩む者である。
 ルステラでパウロは、生まれつき足の不自由な人をいやしたが、それは序文にすぎず、それが何を意味しているのかが書かれている。いやされた人は、パウロが語っている福音が、今までゼウス神殿で語られてきたこととは違っているということに気づき、心を傾けていた。パウロとバルナバはこの人がいやされるだけの信仰を持っていると認め、癒しを求めたのである。
 ルステラはローマの支配下にはあったが、まだその地方の言葉が語られていた。この癒しを見た人々は、パウロとバルナバを、ヘルメスとゼウスが人の姿をとって来たと思い、雄牛を引いてきて犠牲をささげようとした。地方の言葉を理解できないパウロとバルナバは、この時点で気づき、やめさせようとした。
 「愚にもつかぬもの」とは偶像礼拝のことである。ここでは人間崇拝ということもできる。これは各国で行われていることであり、人々の心の中に根強く残っている考えである。日本でも第二次大戦前は天皇崇拝が行われていた。1946年に「人間宣言」が行われた後も、その考えは払拭されてはいない。パウロは、「顔は天使のように輝いていた」と伝える書物もある。だからルステラの人々は「神」と思って礼拝しようとしたのである。
 「やっとのことで、群衆が自分たちに犠牲をささげるのを、思い止まらせた」とある。それだけ人間崇拝の思想が根強く人々の心に入り込んでいることを伺わせる。しかしそのようなところから離れて「すべてのものをお造りになったいける神に立ち帰るように」とパウロは語っているのである。(文責・I兄)         

 

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